私たちは何のために生きているのでしょう。私たちは何を求めて生きているのでしょう。

中学生くらいの時にこういうことを考えて悩んだりした人いますか?僕はそうでした。今思えば中学生の心理レベルで一人でいくら悩んでいても答えはそうそう見つからないですよね。

この普遍的な問いかけを考える時、シンプルに時間軸を二つに分けて考えてみることが大切です。

 

「過去-現在-未来」という時間の流れにおいて、私たちは何のために生きているんだろう。何を求めて生きているんだろう。

「いまこの瞬間」、私たちは何のために生きているんだろう。何を求めて生きているんだろう。

 

多くの人が悩むとき、それは「過去-現在-未来」という時間の流れにおける自分の存在意義なのではないのでしょうか。

この悩みはとても普遍的に思えますが、人間以外の動物にはこのような悩みはありませんので、人間特有の悩みとも言えます。

人間だけが過去に煩わされたり、未来を案じてしまうわけですが、そのおかげで文明が発展してきたのも事実かもしれません。未来を案ずる悩みがなければ文明を発展させなくてもそのままで良いわけですから。

現実的な「解釈」をすれば、「過去-現在-未来」という時間の流れにおける自分の存在意義は誰にもわからない、ということなのでしょう。

自分が生きていたことで知らず知らずのうちに多くの事に影響を与えてしまっていますが、自分がいなかったらどうだったかなんて誰にもわからないですよね。

少なくとも自分がいなかったら、世の中は今とは多少違うことになっていたでしょうし、未来も違う未来になっているでしょうし、時間軸を膨大に延長してみると、もはやそのようなことは宇宙におけるささやかなノイズのようなものになってしまいますが、でもたしかにちゃんと存在したささやかなノイズです。

 

では、「いまこの瞬間」私たちは何のために、何を求めて生きているのでしょうか?

お金?

愛情?

賞賛?

権力?

本能的な欲求を満たす事?

どれも当てはまりそうで、どれもなんだかしっくりこないような気もしませんか。

もっとこう一言でシンプルに求めているものは何なんでしょうか。

 

 

仮説です。

「今この瞬間」、私たちが最も求めているものは「安心」なのだと思います。

 

お金も愛情も賞賛も、体を動かして遊ぶことも、友人と笑顔で過ごすことも、ゲームをすることも、愛する人のそばにいることも、孫の世話をすることも、すべてその先にある安心を求めて私たちは生きているのではないのでしょうか。

 

このことに気付いた時、私が病院の発達外来で子どもたちと接するスタンスが大きくかわりました。

非定型発達の子どもたちに対して、定型発達のルールから外れた行動や言動を問題視して病名をつけることやレーダーチャートのようにできないところを分析してダメ出しをすることは、子どもたちの安心感につながるのだろうか???

かつての私は非定型発達の子どもたちの特性を分析することに焦点を当ててばかりで、いかに子どもたちを定型発達に近づけるか、定型発達のルールを守らせるか、ということばかり考えていたのですが、

安心感を守るということの大切さに気付いた後は、非定型発達の子どもたちの安心感はどのようにしたら守れるのか、どのようにしたらそのような子どもたちが所属する家庭や学校や社会が「その子たちにとっての承認環境」としてよりよく機能していくのか、ということを考えるようになりました。

そのうち、共感性の高いタイプの人と自閉性の高いタイプの人とでは安心感に直結する根本的な部分が多少異なることがわかってきました。