私たちはどのようなときに安心を感じるのでしょうか。

不安が減り、安心感が高まっているときはどのような状態なのでしょうか。

 

仮説です。

私たちは(精神的な存在としての)自分が存在しているという感覚=「自分の存在感」を確かに感じているときに安心感が高まる。

 

何が自分の存在感とリンクしているのかは人によって異なるようです。

共感性の高いタイプの人は人とのつながりや絆によって自分の存在を確かだと感じるようです。このようなタイプの人はたくさんの友人や家族に囲まれ、多くの時間を他者と気持ちを共有して過ごすことで安心感が高まるのでしょう。

精神的に高次のレベルにある人では、物理的な自分の肉体が失われることよりも他者との絆や愛着関係を守ることを優先する場合があります。なぜなら安心感につながる「自分の存在感」とは物理的な自分ではなく精神的な自分だからです。

自閉性の高いタイプの人は「自分の世界が守られていること」によって自分の存在を確かだと感じるようです。友人関係や家族関係にそれほど依存しないタイプであるともいえます。

このようなタイプの人は自分の世界にふさわしい、しっくりくるヒトやモノや場所や仕事やスケジュールやルーチンが守られていることで安心感が高まるようです。逆に言うと、どんなに社会的に成功してお金持ちになったり、異性関係に不自由しなかったとしても、「自分の世界」が他者に土足で踏みにじられてしまうと安心と不安のバランスが不安優位に傾くのかもしれません。

そしてこのタイプの人は「驚かされる」と非常に心が傷つくことが多いように思います。

 

自閉性の高いタイプの子どもたちに「友達をたくさん作ってなかよくしましょう」、「運動会に参加して楽しみましょう」、ということは、安心感という観点からはいかがでしょうか?

友達が増えるという事は「自分の世界」が脅かされるリスクが増えることにもなるかもしれませんし、そもそもこのタイプの子どもたちは友達と過ごす時間があまり増えると自分自身の時間が減るので疲労や不安を感じやすいことがあります。

また、日常のルーチンとは異なる運動会などの行事はとても苦痛に感じる場合があります(とても乱暴な喩えですが、仮に私が人前で歌うことが苦手だったとして、全員参加の社内カラオケ大会に強制参加させられるとしたらどう思うかなと考えてしまいます)。

 

共感性の高いタイプが感じる自分の存在感のルーツと自閉性の高いタイプが感じる自分の存在感のルーツの違いを双方が認識し、それぞれのルールを尊重しながらお互いの安心感を脅かさずに共存できることが理想ですね。