前回、「自分の存在を確かだと感じる」ことが安心感につながるのではないかという仮説をたててみました。

また、自身の存在感のルーツは人それぞれですが、共感性の高いタイプは「人との絆や愛着」、自閉性の高いタイプは「自分の世界が守られていること」が大きな要素になっているのではないかと推測しました。

 

*自分の存在を実感する=安心

*自分の存在がないがしろにされる=不安

 

いささか単純かもしれませんが、安心と不安の一つの側面についてシンプルにこのように解釈してみます。

さて、私たちは日々生活していますが、いろいろと大変なことも多いですよね(学校や仕事のある日は特に)。安心と不安のバランスをみますと、安心が回復するスピードよりも不安が高まるスピードの方が速くて、ほっておくとついつい不安の方が優位になってしまうような気がしますが、私だけでしょうか。

くりかえしになりますが、安心感を取り戻すためにもっとも手っ取り早い方法、それは自分の存在を実感することだと思います。

共感性の高いタイプの人であれば、誰かに話を聞いてもらい、相手にも自分と同じ気持ちになってもらうことなのではないでしょうか。さえぎられることなく話を聞いてもらい自分の気持ちを共感してもらえると、自分の存在が確かなものとして感じられ安心感が高まると思います。この理屈は感覚的にもなんとなくわかるのではないのでしょうか。

では、話を聞いてくれて共感してくれた相手の人の安心と不安のバランスはどうなるのでしょう。

話者の不安と直結しているネガティブな話を聞かされた相手の人は不安が高まりますよね。そしてその人の安心がその分だけ減ってしまいます。

 

仮説です。

*話をさえぎられずに相手に聞いてもらい共感してもらう

→自分の不安の一部を相手に渡して、相手から安心の一部をもらう

*相手の話を傾聴し、共感する

→自分の安心の一部を相手に与えて、相手の不安の一部を引き受ける

 

このように考えると、相手の話を聞くときに途中で相手の話をさえぎったり、傾聴する前に自分の話題にすり替えたり、共感したり受容したりせずに、説得したり解釈したり気持ちを抑制したりするような行為は相手の存在を少し、ないがしろにしてしまう行為なのかもしれません。そしてその場合は話をした方も不安と安心の交換ができずに不全感が残ってしまいます。

問題を解決しなければならない場面での会話は別として、日々の生活の中でたまっていく不安を少しでも安心にかえたい、と願って行う会話の場面では、話を聞く方のスキルが大切だともいえます。

どこまで重い話を受容できるかは人によってキャパシティーが異なり、かなりヘビーな内容でもしっかりと受け止めて気持ちに寄り添うことのできる人は「受容限界点が高い」人ですのでカウンセラーの資質があるでしょう。

 

もやもやとした形のない負の感情とその感情とリンクされたエピソードの記憶は、そのままですと高い毒性を持ったまま心の中に存在し続けるように思われます。

しかし、一度言葉や文字という確かな物に変換して自分の外に出し、誰かにそれを聞いてもらったり読んでもらったりして自分のその時の感情に近い気持ちを感じてもらい、その気持ちを受容してもらうことで、負の感情とエピソードの記憶は細かく分解されていきます。

アレルギー性の高いタンパク質は細かくアミノ酸に分解されることでアレルギー性を失いますが、負の感情とエピソードの記憶も細かく分解されることで次第に毒性が和らいでいくのかもしれません。